日本留学経験を持つ世界の指導者5名を紹介

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埼玉大学の卒業生に、とある国の首相がいるのをご存知でしょうか?

日本の首相の話ではありません。その人は、2023年にバルカン半島に位置するモンテネグロの新しい首相になったミロイコ・スパイッチ氏です。36歳でモンテネグロ首相になったスパイッチ氏とはどんな人なのでしょうか?

同時に、世界のリーダーになった日本留学経験者についてもまとめましたので、是非お読みください。

埼玉大学から若き首相が誕生?- ミロイコ・スパイッチ

ミロイコ・スパイッチはモンテネグロの政治家であり、プリェヴリャ・ギムナジウムを卒業後、日本政府の奨学生として大阪大学に一年間留学し、その後埼玉大学で計量経済学を学びました。留学中には、日本がアジアで果たすべき役割について論文を書き、学生小論文コンテストで優勝したこともあるそうです。

その後、中国の清華大学でも留学経験を積んでいます。卒業後はフランスのHECパリビジネススクールで修士号を取得し、米国のウォール街やパリ、東京で働いた経験も持っています。

2020年より政治家として活動し、議会選挙ではズドラヴコ・クリヴォカピッチの専門家チームのメンバーを務めました。12月には財務・社会福祉大臣に就任し、経済改革プログラムを推進しました。

その後2023年に、モンテネグロ大統領選挙に立候補しようとしましたが、セルビアとモンテネグロの二重国籍であることが問題となり、立候補を拒否されました。しかし同年8月10日、ミラトヴィッチ大統領がスパイッチ氏に新政権樹立を委任し、10月31日に議会が新内閣を賛成46反対19票で承認し、スパイッチ内閣が発足しました。

埼玉大学で経済学を学んだ若きリーダーのニュースは喜ばしいものですが、彼以外にも、日本留学経験を持つ世界のリーダーたちがいます。続いて、そのような「日本留学組」のリーダーたちの経歴を見ていきましょう。まずは、2024年現在も軍政権によって自宅軟禁状態にある、ミャンマーの民主活動家アウンサンスーチー氏です。

ミャンマーの民主化指導者 – アウンサンスーチー

アウンサンスーチーは、ミャンマーの非暴力民主化運動の指導者で、映画監督という肩書も持っています。彼女はビルマ(現在のミャンマー)の独立運動を主導したアウンサン将軍の娘として生まれ、インドやイギリスで教育を受けました。大学卒業後はニューヨークの国際連合に勤めていましたが、退職後は研究を再開し、1975年から77年までオックスフォード大学ボドリアン図書館編纂研究員を務めました。

その後、父アウンサン将軍の研究をするため、オックスフォード大学で2年間かけて日本語を習得し、1985年10月から翌年7月までの約9か月間、国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、大日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査を行い、父アウンサン将軍についての歴史研究を行いました。

1988年にビルマ(現ミャンマー)に戻った後のスーチー氏については、広く知られている通りです。国民民主連盟(NLD)の結党に参加し書記長になりますが、選挙結果による権力移譲を拒否した軍政権により、度重なる自宅軟禁状態に置かれます。

その後、2015年11月8日に実施された総選挙でNLDが圧倒的な勝利を収め、アウンサンスーチー自身も連邦議会下院議員に当選し、事実上の「アウンサンスーチー政権」が樹立されました。しかし、2021年にミャンマー国軍によって起こされた軍事クーデターにより再び拘束され、2024年現在も軍政権によって自宅軟禁状態にあります。

続いては、日中国交正常化の立役者と言われる、中国の周恩来国務院総理(首相)について見ていきましょう。

日中国交正常化、ニクソン訪中の立役者 – 周恩来

周恩来は中国の政治家・革命家で、1898年3月5日に江蘇省淮安府山陽県で生まれました。南開中学校卒業後、1917年に日本に留学して東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現在の政治経済学部)に通学しました。

日本滞在中は、勉学に励みながらも祖国の将来について友人と議論したり、日本社会や日本人について観察したりしたことを日記に記しています。これが所謂「知日派」としての基礎を作ったとも言われています。留学中には河上肇の著書を通してマルクス主義にも触れ、京都大学での講義も聴講しました。

帰国直後、中国近代史の起点となる五・四運動が起き、周恩来は学生運動のリーダーとして頭角を現していきます。1949年の中華人民共和国建国後、周恩来は国務院総理(首相に相当)として就任し、死去するまでの27年間在任しました。

彼は外交政策を主管し、インドやエジプト、アラブ諸国、ソ連、米国、日本などとの外交関係を築きました。特に、1972年にはリチャード・ニクソン大統領の訪中を実現し、アメリカとの国交正常化交渉を推進しました。同年には日本との国交正常化も実現させ、日中関係の基礎を築きました。周恩来はその人柄から、ニクソンやキッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも信頼が厚かったと言われています。

続いては、あのロックフェラー家の子息が日本に留学していた実話を見ていきましょう。

シェアハウスに石油王?- ジョン・ロックフェラー4世

ジョン・デイヴィソン “ジェイ” ロックフェラー4世は、アメリカ合衆国の政治家であり、ロックフェラー家の一員です。彼は1977年から1985年までウェストバージニア州知事を務め、その後は1985年から2015年までウェストバージニア州選出の連邦上院議員として活躍しました。

彼はフィリップス・エクセター・アカデミーを卒業し、1957年から1960年まで国際基督教大学で日本語を学んでいました。その後ハーバード大学で東洋の歴史及び言語を学び、1961年に卒業しました。国際基督教大学留学中は数人の日本人と同居していましたが、「ロックフェラーに会いに外務大臣が訪ねてきた」や「率先してトイレ掃除をしていた」等、様々な逸話があります。

政治家として、ロックフェラー上院議員は日米関係の強化に尽力し、特にウェストバージニア州への日本企業の誘致に取り組みました。その結果、多数の日本企業が同州に進出し、日本とウェストバージニア州の経済関係が緊密化しました。さらに、日米友好基金の理事を務めるなど、日米間の文化・人物交流の促進にも貢献しています。

幅広い分野での日米関係の強化に取り組んだ功績が評価され、2008年に日本商工会議所より日米特別功労賞を授与されました。さらに、2013年には日本政府から旭日大綬章を受章しています。

続いては、近代中国史の重要人物である魯迅について見ていきましょう。

魯迅

魯迅は、中国の小説家、翻訳家、思想家です。本名は周樹人で、浙江省紹興府の士大夫の家系に生まれました。

1902年、魯迅は国費留学生として日本に渡り、医学を学びました。仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学し、解剖学の藤野厳九郎教授の指導を受けました。

しかし、(諸説ありますが)ある事件が彼の進路を大きく変えることとなります。当時、医学校では講義用の幻灯機で日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていました。その中で、中国人がロシアのスパイとして処刑される様子を幻灯機で見たことがきっかけとなります。彼は、中国人の精神的な覚醒が必要だと感じ、医学よりも文学を通じて人々の意識を変えることに使命を見出しました。

この経験について、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にはこう書かれています。

あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとえ体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。(竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫)

諸説ありますが、この経験から、魯迅は文学活動に専念することを決意したと言われています。彼の作品は中国国内だけでなく、東アジア全体で広く読まれ、日本の中学校の教科書にも収録されています。1936年に亡くなるまで、魯迅は中国の文学と思想の発展に大きく貢献し、その影響は今なお続いています。

世界の指導者になった日本留学経験者5選 – まとめ

今回の記事では、政治や文学など様々な分野で世界の指導者になった日本留学経験者をまとめてみました。世界の表舞台に立つ人は、自国だけでなく様々な国で教育を受けたり研究を行ったりしています。未来のグローバルリーダーたちの留学先として、もっと日本が選ばれるようになってほしいものです。

グローバルタレントの力で日本企業の海外進出をサポートする【株式会社PILOT-JAPAN】代表。及び、多言語Web支援を行う【PJ-T&C合同会社】代表。キャリアコンサルタントとして500名以上の留学生や転職を希望する外国人材のカウンセリングを行ってきた。南アジア各国に駐在、長期出張経験があり、特にネパールに精通している。

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