先日とある舞台を拝見した際、『ベトナムから日本にやって来た技能実習生』という役柄の人物が登場しました。そこでは、鳶職の現場で、笑顔で活躍している様子が描かれていました。
一時期は日本に来る外国人と言えば中国人がほとんどでしたが、近年ではベトナム人のイメージが強くなってきた気がします。
今回はその『ベトナム』について学んでいきましょう。
海外で活躍するベトナム人
先述の舞台の後半で、件のベトナム人が家族写真を同僚の日本人たちに見せるシーンがありました。同僚の一人がその写真の背景に見える豪邸に目を奪われ驚いたところ、日本で稼いだお金を送金したら家族が一生暮らせる額になった、先進国では微々たるお金でも新興国にとっては立派な大金、とのこと。
実際、新卒月給は日本では20万円前後が一般的ですが、ベトナムではなんと約3万円。昇給率でいえば日本と比べて割と高く5~10%となっていますが、最近重宝されているITエンジニア職でもない限り、この差があれば、祖国を離れてでも海外で働きたいと願う気持ちは良くわかります。
ベトナムの人口は約9700万人。そのうち海外に移住しているベトナム人は全人口の約5%にあたり、世界100か国以上に居住しており、そのほとんどが先進国在住となっています。なかでも半数近くの人々はアメリカに住んでいます。
これにはベトナムの歴史が深く結びついているのです。
「越僑」の存在
ベトナム国外に定住するベトナム人は「越僑」(「越」は越南、つまりベトナムの略。「僑」は仮住まいの意)と呼ばれてきました。
日本では「華僑」の方が耳馴染みがありますね。「華僑」は「中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」のことだそうで、似たような意味の「華人」は「移住した現地の国籍のみを有する土着した元漢民族」という意味だそうです。ならば「越人」という言葉は…どうやら無さそうです。
彼ら「越僑」はベトナムの外から活発に祖国の独立と統一を支援しました。1887年仏領インドシナ連邦(もともとインドシナとは、19世紀初頭に学者であるJ・ライデンが、インドと中国の間に位置し文化的影響を色濃く受けた東南アジア諸国であるベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーの総称として用いたのが初出)としてラオス、カンボジアとともにベトナムはフランスの支配体制下に置かれました。インドシナの中に国境はなく、人々は留学生・労働者・植民地官吏などとしてアジア・ヨーロッパ各地に流出、ベトナム戦争中は各国政府との連絡役や世論に戦争反対を喚起するなど積極的な役割を担いました。そんな彼らを当時は政府も同胞として扱いました。
ちなみにベトナム戦争(今日のベトナムでは「抗米救国戦争」と呼ばれています)は南北ベトナムの統治を巡る戦争のこと。南ベトナムはアメリカ、北ベトナムはソ連の支援を受けていたので米ソ間の代理戦争とも言えます。1955年にベトナム南部にベトナム共和国が建国されたことを皮切りに、ベトナム北部のベトナム民主共和国との戦争を開始。1961年にアメリカが南ベトナムに援軍を派遣。北ベトナム側の「南ベトナム解放民族戦線」に対抗するべくアメリカは枯葉剤の散布を開始。1964年にソ連が南ベトナムに軍事支援を表明。資本主義勢力と社会主義勢力のバックアップのもと、戦争は激化していったものの、反戦を求める世論の声もあって1973年にアメリカ軍はベトナムから撤退。1975年南ベトナム首都であるサイゴン(現ホーチミン市)陥落により戦争終結。20年に及ぶ長きにわたり続いた戦争で数百万人に上る死者が出ました。
「越僑」の扱いが変わったのはこのベトナム戦争終結後。まず終結直後にアメリカ政府関係者とともに13万人近くの役人・軍人・医師・エンジニア・教師などのエリート層がサイゴンを脱出し渡米しました。その後も中越関係の悪化やインドシナ三国が社会主義体制に移行していったことで、ボートピープルやランドピープル(海上や陸路で他国へ逃げた人)として新体制下で迫害を受ける恐れのある人々や馴染めない人々が海外に脱出しました。彼らの大半もアメリカに渡ったのですが、多くは旧南ベトナム政権の関係者やベトナム共産党の国家建設の方向に合致しないとされた人々、また共産党政権以降の現状に不満をもって逃れた人々であったので、必然的に反共産主義の傾向にあり、ベトナム政府も彼らを反動分子と位置づけました。
しかしこの状況下においても、在米ベトナム人は祖国に残る親族に向けてあらゆる手を駆使して送金や物資の支援を始めました。
1979年からの10年間で約5億ドルにのぼった「越僑」からの援助は、戦後の疲弊、社会主義的経済改革の失敗、1977年から続いた天災、西側諸国からの経済制裁、およびカンボジアと中国との戦闘準備、これら様々な事情によりに困窮していたベトナム経済を潤し、政府は彼らを「同胞」として積極的に活かす方向に舵を切らざるを得なくなりました。
送金額の制限緩和や全「越僑」への入国ビザ発給などの政策転換が行われたことで、在米ベトナム人は再び祖国への里帰りが可能になり、反共産主義を唱えていた人々も、徐々に政府への考えを改めるようになってきました。
「越僑」から「在外ベトナム人」へ
しかし1980年代の段階ではまだまだ問題がありました。
在米ベトナム人はいわば他の外国人と同じような扱いであり、入国にはビザが必要で、宿泊や航空券などの値段設定が旅行者よりは安いものの、ベトナム国民より高く設定されるという二重の価格設定が行われました。また本人名義では不動産や車の購入ができず、ビジネスライセンスも取得できませんでした。全くの外国人である観光客よりは好待遇でしたが、それでも不満を解消するにはさらなる改革が必要でした。
この問題が解決するのは1994年頃です。
まず政府は「越僑」という呼び名を「在外ベトナム人」に改めました。共産主義者の間では、もともとの意味での「越僑」を「愛国越僑」、反共産主義傾向の人々の「越僑」を「妖怪越僑」と呼び分けることもあり、反共産主義の意味合いがついて回る「越僑」という言葉を好まない人が増えたからです。
さらに全ての「在外ベトナム人」を対象に、改めて具体的な政策も打ち出されました。
二重価格が廃止され、ビジネスライセンスも不動産も本人名義で取得できるようになりました。ベトナム国籍喪失者は再取得が可能となり、一定の条件下で二重国籍の維持を容認し、入国に際してビザは免除となりました。
この政策のお陰か、帰省者はその後ますます増えており、また在外ベトナム人からの送金額も増加し続け、今では100億ドルを突破しており、ベトナムの国内総生産の約5%を担っています。
在外ベトナム人とこれからの日本
現在、ベトナムと在外ベトナム人とは良好な関係にあり、結果多くのベトナム人留学生・労働者がこの日本にも渡ってくることになったのです。
2021年6月末の時点で日本には45万人以上の在留ベトナム人が暮らしています。
出典:『法務省出入国在留管理庁 2021年10月調べ』)
1992年に経済協力が再開して以降、日本はベトナムにとって最大の援助国(二位はドイツ、三位は韓国、四位はアメリカ、五位はフランス)となりました。
2022年現在、コロナ禍においてもたくさんの在日ベトナム人の方がこの日本で活躍されています。入国規制が今後解除されれば、ベトナムからの渡日を含めさらに多くの外国人が来日することでしょう。多様な人材が働き、暮らすようになるにつれて、私たち日本人は相手の文化や歴史を知る必要があります。そうしなければ、彼らと良好な関係を築き、調和の取れた社会を作ることができないからです。
今後も、世界を知るための情報を発信していきますので、記事の公開を楽しみにしていてください!
劇団民藝所属。俳優として活躍する傍らソーシャライズで多文化共生を推進すべく主に動画編集や記事の執筆、インタビューなどを担当。舞台や歌、踊りなど人類がはるか昔から共有していた活動にこそ相互理解の本質があると考え、人の心に触れる術を日々模索している。