世界遺産が目白押し!色とりどりの魅力を備えた中部ベトナム

前回の記事『千年古都「ハノイ」を知る』、前々回の記事『本当に社会主義国?高層ビル乱立の超近代化都市「ホーチミン市」』とベトナムの北部、南部の中心都市を紹介していきました。そこでその間、中部ベトナムはというと、これがなかなか一つの都市だけと言う訳にはいかないようです。今回はベトナムの中でも世界遺産登録の数が多い中部ベトナムについて解説していきます。

世界遺産の分布

ベトナムの世界遺産は以下の通りです。

フエの建造物群(1993年・中部)
ハロン湾(1994年、2000年(範囲拡張)・北部)
古都ホイアン(1999年・中部)
ミーソン聖域(1999年・中部)
フォンニャ・ケバン国立公園(2003年、2015年(範囲拡張)・中部)
タンロン皇城の中心区域(2010年・北部)
胡朝の城塞(2011年・北部)
チュンアンの景観関連遺産(2014年・北部)

北部4か所、中部4か所。

初期の段階で登録されたのは、ハロン湾を除いてすべて中部の遺跡・建造物です。北部は2010年代に入りようやく登録され出したといった感じですね。

ちなみに南部は0か所。これについても後ほど考察したいと思います。

北と南と中部、遜色ないのは意図的!?

ベトナムにおいての国家統合の原則に、北部・中部・南部におけるパイの平等な分配、国土の均衡的な発展というのがあります。

地域別・民族別にバランスを取ろうとする気配りは、国家権力上の最上級ポストの北部・中部・南部出身者への振り分けにおいて最も明らかではありますが、そのほかの大規模なプロジェクトの実施においてもその傾向は顕著です。

北部には、ディンと呼ばれる木造コミュニティハウスがあります。高床式になっており繊細な彫刻は一見の価値がある代物です。世界遺産登録されても不思議でないほど素晴らしい建造物ですが、なぜかこのディンや、後年世界遺産登録される北部3か所の遺跡を差し置いて、中部4か所の遺跡・自然が先に世界遺産として登録されました。

これには北部・南部に比べ取り上げられる機会が少ない中部を優先したいという政治的判断によるところが大きいと言われています。

となると、後年北部に世界遺産が増えてきたのも、なんとなく理解できますね。

それだけ南部代表都市「ホーチミン市」が強大であるということなんでしょう。世界遺産がなくとも充分に人が集まる、ゆえに人の分散を図るためにも最初は中部に、次に北部に世界遺産を増やしたんですね。

観光客を取り合う訳じゃなく平等に分配する。社会主義国らしい配慮がこんなところに表れています。

古都の風情が漂う、グエン朝最後の都「フエ」

ベトナム最後の王朝、グエン朝(1802~1945年)の都がおかれた町フエ。

元ユネスコ事務局長のアマドゥ・マハタール・ムボウ氏は、フエを「賞賛すべき建築上のポエム」と評価しました。ゆったりと流れるフーン川のほとりに、王宮、寺院、皇帝陵など風格のある建築物が点在する、落ち着いたたたずまいの町。京都のような趣を感じる場所です。

フエの町はフーン川を挟んで新市街と旧市街に分かれています。その旧市街は星形の城郭に囲まれており、その内部は京都とよく似た方形都市です。

その中心部は、フエ遺跡保存センターが管理している皇居があり、その堀の外側に商家と民家が建ち並んでいます。民家のほとんどは庭付き家(ニャーヴオン)と呼ばれるかつての王侯・貴族・高級官僚の邸宅です。贅沢ですが小ぶりな木造平屋建築と、広大な庭園が特徴です。

フエの人々はよくこの庭で琵琶や箏などの伝統楽器を弾いて茶を楽しむ文化があるそうです。たいへん粋ですね。また古武術の盛んなフエでは、この庭で武術の道場を開くこともあるそうです。

焼身自殺で抗議

フエ王宮の東側にある「歴史革命博物館」。その壁に展示された写真の中でひときわ目を引くのは、炎に包まれた僧の写真。1963年にゴ・ディン・ジエム政権に抗議して焼身自殺した、フエのトゥーダム寺院のティック・ティウ・ディウさんの最後の姿です。

当時、アメリカの傀儡と言われたジエム政権は国内の民主化の動きや伝統的な仏教を弾圧、これに抗議して6人の僧侶が次々と焼身自殺しました。とくに有名なのが最初に自殺したティック・クワン・ドゥクさんの写真で、当時世界中の新聞に掲載されました。

ドゥクさんは事前にマスコミに告知をしたうえで、自分で大型英国車オースチンを運転しフエからサイゴンに向かい、交差点に車を止めるとガソリンを抜いて身に振りかけて火を放ちました。彼は死んでも座禅の姿勢を崩しませんでした。

ところがジエム大統領の弟の夫人が「あんなものは単なる人間バーベキューよ」とあざけったためジエム政権はますます人々の怒りを買い、アメリカからも縁を切られ、最終的にクーデターによってジエム政権は終焉を迎えてしまいました。

ベトナムの言葉に「王の権力も村の垣根まで」というものがあります。国家の力は村の中までは及ばず、住民は心の支えである仏教を中心に生きてきました。全人口の90%が仏教徒。彼らの信じるベトナム仏教は来世の幸福を解くだけではありません。現世のご利益も追求します。現世が非道なものであれば、身をささげても戦う、それがベトナムの仏教なのです。

DMZのすぐ隣にある死

DMZとは「Demilitarized Zone(非武装地帯)」の略。

ベトナム戦争当時、南北ベトナムの国境となった北緯17度線に位置したベンハイ川の両岸約4キロずつをこう呼びました。しかし皮肉なことに、ベトナム戦争中最も激しい戦闘が行われたのは、このDMZのすぐ外側でした。

ベトナム戦争中、南ベトナム軍を支援するアメリカ軍が最も北ベトナムに近い地域に設けた「ケサン軍事基地」。

1968年、この基地に北ベトナム軍は猛攻を仕掛けました。米軍は周囲を固める25,000人のベトナム軍に対して空から爆弾10万トンを浴びせました。75日間にわたる包囲戦で米軍は500人、ベトナム軍は10,000人もの死者を出しました。

今、その戦場の跡には掘り起こされた爆弾の残骸と、どこまでも続く広大な赤土の平地があるばかりです。

ケサンの戦いの直後、米軍司令官は基地の放棄を決めました。しかし生きている人間以外のものを運び出す余裕はなく、建物やトラック、弾頭もすべて地中に埋めました。もちろん遺体も。

ベンハイ川の北側はビンリン地区と言います。

ここは「爆弾の袋」とも呼ばれています。北ベトナムを爆撃した米軍の飛行機は南の基地に帰る際、余った爆弾をここに落としました。今でも水田にはあちこちに丸い穴が開き、水が溜まっています。

爆弾の下で、人々はどのように暮らしていたのでしょうか。

その答えは地下基地&地下住居として掘られた「ヴィンモック・トンネル」です。住民は当時、疎開を拒んで地中に穴を掘って暮らしました。地面から15~28メートルの深さに全長2キロものトンネルを掘ったのです。それも鍬とスコップで1年半という期間をかけて。

1992年、退役軍人によってベンハイ川に近い国道沿いの町ドンハに国営のツアー会社が出来ました。現在ではこのDMZの南を東西に走る国道9号線や国道1号線沿いに点在するベトナム戦争激戦地跡を巡る「DMZツアー」が観光客向けに設けられました。

次回、粒ぞろいの中部ベトナム都市

北部や南部に比べて印象が薄いと思われていた中部ベトナム。

しかしどうでしょう、フエだけでこれだけのボリュームとなりました!

他にもホイアンやミーソンなど、魅力的な場所がたっぷりです。次回はフエ同様、中部ベトナムを語るうえで外すことのできない粒ぞろいの町々を紹介していきます。

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