千年古都「ハノイ」を知る

前回の記事『本当に社会主義国?高層ビル乱立の超近代化都市「ホーチミン市」』では南ベトナム最大の商業都市「ホーチミン市」について書きました。多様性にあふれる現代的で活力あふれる街でしたね!

今回は、そのホーチミン市から1800キロ以上北上した場所にあるベトナムの首都「ハノイ」について解説していきます。長い歴史を持つこの街の魅力に迫ります。

政治・文化の都市「ハノイ」の魅力

突然ですが、ハノイを上空から見てみると何色に見えますか?グーグルマップでハノイを検索、実際に上空からの映像を見てみましょう。
ハノイ上空の様子
…妙に赤くないですか?拡大すると、まず目につくのが屋根。ほぼ全ての屋根瓦が「赤」。街道も、水田のあぜ道も、山脈も、全てが「赤」。

これは「テラロッサ」と呼ばれる赤土で、酸化した鉄分を多く含んでいることで赤色に変化したものなんです。

ちなみに上流の山を削った赤土を取り込んで街に流れる大河の名前は「紅河(ホン河)」と言います。

「赤」はベトナムの国旗にも使われています。国民の熱き血の色である「赤」と民衆の団結を表す「黄」の星で構成されたデザインは、ベトナム人がこの地に根付いて戦い続けた象徴にも思われます。

タンロンからハノイへ、1000年の道

ハノイ空港から市内に入るとき、壮大なタンロン橋を通って紅河を渡ります。ハノイはかつてタンロン(昇龍)と呼ばれていました。李朝がこの土地を首都としたのは1010年。その際、皇帝の前を黄色い龍が空に飛翔したと言われています。黄色は高貴さを表す色で王朝の象徴でもありました。

ハノイと呼ばれるようになったのは1831年。フランス植民地時代には南部のサイゴンとともに総督府がおかれ、第二次世界大戦の終結で1945年にベトナム民主共和国が発足すると改めて首都となりました。2010年には都となっての千年祭を祝いました。

絶対に崩れない!120年耐え続けたフランス製の鉄橋

旧市街の北側。紅河にかかる鉄橋、ロンビエン橋。フランスが1902年にハイフォン・ハノイ間を鉄道で結ぶために作った古い鉄橋。ロンビエンは龍編と書き、「龍が躍る」の意味。1682メートルに渡って鉄道と歩道が通っています。

ベトナム戦争の際、米軍は戦略的に重要なこの橋を落とそうと繰り返し爆撃しましたが、ベトナム軍は300門の対空砲とミサイルで橋を守り抜きました。以来120年もの間、市民の通行を支えてきました。老朽化のため一時はすぐ南にできたチュオンズオン橋の完成により通行禁止になるものの、結局渋滞の緩和のため今まで通り利用されているそうです。

巨大化するハノイ

ハノイは漢字では「河内」と書きますが、文字通りに紅河の湾曲する内側に市街地を形成してきました。

ところが2008年8月の合併はかつてない規模のもので、ハノイ市の面積は一気に3.6倍、人口も2倍となりました。農村もまだまだたくさん広がっているようですが、だだっ広い田園のすぐ向こうには工業団地が立ち並ぶという、新旧混合の様相が現在のハノイということです。

ハノイ市は10区18県、現在では12区17県となりました。日本の東京都であれば、23区とそれ以外の市、といったところでしょうか。確固たる歴史を持った地域であるハタイ省、王朝時代から地方行政府が置かれていた省都ハドン、独自の城郭を構える行政府所在地ソンタイ。これらの歴史や文化に、行政の波が一面に覆いかぶさった格好になりました。

ハノイがここまで巨大化した理由

ここまで市域を広げたのは、ハノイを南部のホーチミン市に負けない、工業化・近代化をリードする存在とするためでした。

90年代末から工業団地の造成がハノイ近郊でも始まりました。当初は空き地が目立っていましたが、政府の意向で開発はどんどん進み、自身の畑ではなく工場に通う農民の姿も珍しくはなくなりました。

その後もハノイでは工業団地・新都市の建設計画が集中しました。

千年の歴史「ハノイ36通り」

15世紀に中国の侵略を撃退したベトナムの王が「翡翠の緑」と呼ばれる湖で船に乗ったところ、突然水中から巨大なカメが現れ、王の持っていた剣を奪って水中に消えたとのこと。王は「きっとあの剣は、神がこの度の戦のために貸して下さった宝刀だったのだ。役目を終えたので、カメの形を借りた神が、剣をみもとにお戻しになられたのだ」と考えたそうです。

それ以来、湖は「ホアンキエム(還剣)湖」と名前を変えました。

このホアンキエム湖の西北岸一帯に広がるのが「ハノイ36通り」。千年の歴史をもつ旧市街です。

ハノイが最初に首都になった際に、王は新たな街づくりをしました。周辺の市民を呼び寄せて農民、職人、商人の三地区に分け、市街を36の通りに区画整理しました。これらの通りはベトナム戦争の際にも、空爆を免れたそうです。

通りの名前にはハンノン(帽子屋)、ハンバク(銀屋)、ハンコアイ(芋屋)など、扱う商品の名前がそのまま付いています。日本でもときどき、魚町とか八百屋町などの名前が付く場所がありますよね。

旧市街にも時代の波

旧市街のお店の間口は2、3メートルほどしかないのですが、入ってみると奥行きが50メートル、長いものだと100メートル近くも続いているのだそうです。お店、作業場、居住のすべてが一体となっているんですね。広くてうらやましい限り、と思われますが、実はこの空間に5~10の家族が共同生活しているのだとか。

ハノイには800万人以上の人が住み、先述の合併もあってこの首都の人口は急激に増え続けています。間口の狭い店々も、4、5階建てのレンガ造りとなり、不動産も値上がりの一方、「36通り」も今では70通り以上に増えてしまいました。

この急激な人口増加の影響で、居住スペースの少ない旧市街から郊外のマンションに移り住む人が増えたようです。ですが商売自体は旧市街で行った方が便利なため、郊外から旧市街へ通勤する商人の姿が多くなりました。

北爆の傷

ハノイ駅から少し南に下ったところにカムティエンという通りがあります。ここは旧市街と違い、ベトナム戦争中の1972年、米軍による空爆を受けいったんは壊滅しました。

クリスマスを挟んだ12月18日から29日にかけての12日間、ハノイは大規模な空襲に襲われました。アメリカ軍は千を超える爆撃機、戦闘機を動員、8万トンの爆弾を集中投下しました。東京大空襲でのアメリカ軍が投下した爆弾が1700トン、その実に50倍にあたります。
ハノイは都市機構の1/3が破壊され、市民1318人が死亡。カムティエン通りは12月26日の一晩だけで283人が死に、1700軒の家が破壊されました。

「ベトナムを石器時代に戻してやる」と公言したアメリカの空爆は、北ベトナム全土に渡り、米軍の飛行機は16万回の出撃で合計255万トンの爆弾を落としました。第二次大戦中に全世界に落とされた爆弾の量よりも多い膨大な数の爆弾を、ベトナム戦争中、北ベトナムの一国が受けたのでした。

建都千年を迎えて

2010年、ハノイは建都千年を迎えましたが、これに合わせてかつての王宮であったタンロン城が世界遺産に登録されました。これを機に、端門から宮殿中心域をふくめたエリアが公開されるようになり、また隣接するホアンズィウ17番地では発掘が進められ、李朝、陳朝の各時代の遺構などが検出されたため、国内外の注目が一気に高まりました。

ベトナムで古都といえばフエでしたが、そちらは200年ほどの歴史であるのに対し、ハノイはさらに長い歴史を持つ都です。経済の中心地ホーチミン市に対抗しようという機運も高まりました。

しかしその結果、ハノイは歴史と伝統を重んじながら、国家発展の象徴としての役割も果たさなければならなくなりました。千年の都の看板は想像以上に重いものなのでしょう。また、都市部と郊外との関係性も、今後模索しなければならない課題です。

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