古都フエだけじゃない。ダナンやホイアンなど中部ベトナムの魅力に迫る。

前回の記事『世界遺産が目白押し!色とりどりの魅力を備えた中部ベトナム』ではベトナム最初に世界遺産に指定された遺跡のある町フエについて解説していきました。

今回はフエとはまた違った魅力を放つ中部ベトナムの町々をご紹介します。

幻の日本人町「ホイアン」

ダナンの南東約30キロ、トゥボン川左岸の河口近くにある「ホイアン」

1601年から約30年の間、この地には日本人町が存在しました。

豊臣秀吉の時代から江戸時代の初めにかけて、朱印状という公認の許可証を持って貿易した船を朱印船と言います。鎖国による貿易禁止となるまでにこの朱印状は354通出されましたが、そのうち「ホイアン」当ては86通にのぼります。

「ホイアン」は朱印船貿易のメッカでした。日本の商人は東南アジア19の町で交易をおこない、うち4か所に日本人町を作りましたが、現在も日本の痕跡が残っているのはこの「ホイアン」だけです。

その痕跡も、今では日本人墓地のいくつかと石碑と、1593年に建てられた「日本橋」と呼ばれる屋根の付いた頑強な橋くらいとなりました。

ただホイアンの商家・民家は、いわゆる「町家造り」なので、京都の商家とよく比較されるようです。町家の中に入ると、家の内部が広いのに驚かされます。構えは小さいですが、奥が深く、二階家の場合も多いために面積は広く、その中心部分は中庭になっています。

江戸幕府の鎖国政策で日本人町が衰退した後は、華僑の人々が多く移り住んだため、現在残る古い町並みや建築物には中国南部の色合いが濃いものとなっています。また通りによってはベトナム風建築や欧風コロニアル建築の街並みもあるので、ここがアジアなのかヨーロッパなのか、一瞬分からなくなってしまうこともあるようです。

失われた文明「ミーソン」

フエやホイアンと違い、ミーソンは今、廃墟となっています。

かつてこの地には、チャム民族が作ったチャンパ王国が栄えていました。インドの影響が濃い文化を築き、漁業と航海を得意とする海洋民族でした。ところが1471年、ミーソンは中国系文明であるベトナムに滅ぼされてしまいました。

ベトナムは今でこそインドシナ半島の東側全域を占めますが、もともとは北部にあるハノイを中心とした一帯のみが領土でした。北の中国に抵抗しつつ、中国の支配を脱した後は、南へと進みました。これを「南進政策」と呼びます。

チャンパは当時、南のクメール王国との戦争に明け暮れていました。海外貿易で得た財力で膨大な軍隊を持っていたチャンパでしたが、互いの首都を占領したりされたりの激しい戦いの中で、徐々に国力が衰えてきました。そこで今こそ好機とばかりにベトナムは南へと攻め込み、チャンパを、そしてさらに南のクメールを攻め滅ぼし、領土を3倍にまで拡張しました。

ただこの時にはまだ、現在のような様相とはなっていませんでした。

ミーソンには70以上の寺塔が建てられ、造りもしっかりとしたものでした。それらが破壊されたのはベトナム戦争中。ミーソンを本拠地として戦っていた解放軍に対し、アメリカ軍は空爆を行い、この地を廃墟に変えてしまいました。

ミーソンは「聖域」として世界遺産登録されました。現地の文化体育観光局は、フエやホイアンの文化財保護者らと共に、この地の「保護、開発、研究」のために励んでいると聞きます。

世界遺産以外にも!まだまだ魅力的な中部ベトナム

「極上ビーチスポット」ダナン

中部最大の商業都市「ダナン」

ソンチャー半島に囲まれた天然の良港をもち、古くから東西交易の中継地、重要な国際貿易港として栄えました。また先述のチャンパ王国の王都が、現在の市街地近郊のチャーキウに置かれていた時期もあり、周辺にはチャンパの遺跡も残っています。

近年はリゾート開発が進み、ミーケービーチやノンウオックビーチという美しい2大ビーチの近くには5つ星ホテルが建ち並び、中部ベトナムにある世界遺産にも日帰りでアクセスできることで注目を集めています。また2014年に成田国際空港~ダナン国際空港間の直行便ができたことで日本からの観光客も増えました。

「基地の町」という別の顔

華やかな現在の姿とは裏腹に、ダナンはベトナム戦争時にはアメリカ軍の「基地の町」でした。

1965年にアメリカ海兵隊はダナンに上陸。ベトナム戦争中、アメリカ最大の陸海空総合基地が置かれた場所になりました。日本から送られた軍需物資が荷揚げされたのもダナン港でした。町はずれのチャイナビーチには四角いヘリポートが作られ、米軍は前線で疲れた兵士をヘリでこの地に運んで保養させました。兵士にとってこの地は砂漠の中のオアシス、天国のような場所だったでしょう。

しかし1975年、解放軍が雪崩を打ってこの町に進軍してきました。アメリカ軍や、協力していたベトナム人、南ベトナム軍兵士は天国から地獄へ突き落されました。解放軍の兵士たちは地下に張り巡らせたトンネル(なんと入り口の幅が約30センチ!)を這いずりながらこの巨大な基地に居座る人々に奇襲を仕掛けたのでした。

ダナンと言えば、レ・リー・ヘイスリップさんを忘れてはいけません。オリバーストーン監督の『天と地』という作品は、このヘイスリップさんの自伝をもとに作られた作品です。

ヘイスリップさんはダナン近郊の農村に生まれました。ベトナム戦争の際、解放軍のために働いたことで南ベトナム政府軍に拷問を受け、解放軍からもスパイと疑われてレイプされ、アメリカ人と結婚しアメリカにわたるもその夫は戦争における後遺症「PTSD」を発症し自殺。その後レストランを開業し成功、故郷に帰って戦後の貧しさを目の当たりにすると今度は借金をしてでも自身の財団を立ち上げ、生まれ育ったダナン近郊にピースビレッジ「平和村」と呼ばれる病院や孤児院、学校を建設しました。

2016年、「ベテランズ・フォー・ピース」と呼ばれる退役軍人とその家族により運営される平和団体の呼びかけに応じて、ヘイスリップさんは沖縄の地に降り立ちました。

沖縄戦で亡くなった人々に祈りを捧げ、自身の体験を訴えました。彼女の戦いは未だに続いているようです。

虐殺の記憶「ソンミ」

ベトナム戦争時、とある農村を突如アメリカ軍が襲い、無抵抗の女性や老人、子供たちを機関銃で撃ち、手りゅう弾を投げて皆殺しにし、村を焼き払いました。わずか4時間で、504人の非武装の村人の命、そして村そのものも消されました。その村の名前は「ソンミ」

事件が明るみに出たのはその1年8か月後。当初は「解放軍のゲリラ部隊との戦い」との虚偽の報告がなされたそうですが、フリーランスジャーナリストのシーモア・ハッシュさんが雑誌『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことで周知の事実となり、世界に衝撃を与えました。

事件を引き起こしたとされるウィリアム・カーリー中尉は軍法会議にかけられたものの、3年の自宅軟禁だけで無罪放免となりました。

事件から41年経ち、公的な場にて初めてカーリー氏からの謝罪の言葉が語られました。死体の下敷きになることで辛くも生き残った一握りの人々のうち、現在も犠牲者追悼活動を行っているパン・タン・コンさんは「謝罪はないものと思っていた。あまりにも遅くて驚いたが、犠牲者を代表して受け入れたい」と語ったそうです。

まとめ

いかがでしたか?美しいビーチやアジアとヨーロッパが混在した街並み、世界遺産の数々、ホーチミン市にも負けない商業都市…中部ベトナムの魅力は多面的で実に奥が深いですね。

しかしほんの少し時間をさかのぼれば、ベトナム戦争や、それまでの戦いの傷跡がそこら中にぎっしりと重く刻み込まれています。

それらを乗り越え、明るく前向きに未来を切り開こうとするベトナム人の力強さ。一つ一つを知るごとに、私は心を打たれました。もし読者の皆さんがベトナムに行く機会があれば、見えている表層だけでなく、そこに少しでも残った過去の歴史について、思いをはせていただけたらと思います。

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