日本のダイバーシティの理想と現実

美しい理想。厳しい現実。

6月9日、DIAMOND ONLINEより『日本の「ダイバーシティ」社会に、外国人労働者は何をもたらすか?』という記事が出ていました。外国人労働者をダイバーシティの文脈で取り上げています。記事の最後には、この類の記事でよく見られる結論が書いてありました。

日本人が外国人と働くにあたって、言語・文化の行きちがいやコミュニケーション不全から不安や戸惑いが先立つこともあるかもしれない。しかし、それは雇用されている外国人も同じこと。国籍のちがいを過剰に意識せず、相手の立場を理解し、お互いが寄り添って働いていくことが肝要だ。

とても美しい考え方です。我々も外国人の採用やダイバーシティ・マネジメントなどの講演でお話をさせていただくとき、このような理想について語ります。しかしながら、これを実現するには、数え切れないほどの軋轢や衝突を乗り越える必要があります。それを無視して実現する”ダイバーシティ”は、つまるところマジョリティによるマイノリティの同化政策に過ぎません。反対できないように、逆らえないように、圧倒的な力を示して従えている状態をもって、”ダイバーシティ”だと語っている事例は枚挙にいとまがないでしょう。

この記事では、日本で増加する外国人労働者や彼らを雇用している会社・組織・人の直面している現実を引用しながら、ダイバーシティについて考えていきたいと思います。

※出典1 日本の「ダイバーシティ」社会に、外国人労働者は何をもたらすか?

ダイバーシティとは?

ダイバーシティとは?

ダイバーシティ(Diversity)という言葉はいつ頃から日本で聞かれるようになったのでしょうか?正確にはわからないのですが、少なくとも一般的に耳にするようになったのは2015年よりも後のことだと思います。私が東京外国語大学の学生だった頃、授業で触れたことはあるものの学外の人との交流で「ダイバーシティ」という単語を耳にすることはなかったように記憶しているからです。

同大学の性質上、言葉の成り立ちや定義をよく学びます。Diversityの意味を辞書で調べてみると、

the fact of many different types of things or people being included in something; a range of different things or people.

と書いてあります。私としては「many(たくさんの)」が入っている点が重要で、『違いに対する自らの許容度を拡げていきましょう』という意志を感じ取ります。なぜならば、「many(たくさんの)」の感覚は変化もするし、人によって異なるものであり、100以上であればmanyそうでなければmanyじゃないと客観的には言えないからです。

例えば、これまで外国籍社員が1人もいなかった会社がいきなり5名採用したら「たくさんの外国人が入ってきた!」と感じるでしょう。でも、そこから毎年1〜2名ずつ増えていって、倍の10人になっても「たくさん」という感覚は生まれないと思います。その会社および社員の違いに対する許容度が拡がっているからです。そうしている間に、気づいてみれば外国人社員比率が5%→10%→20%と増えていき、管理職に外国籍社員が就任するようになって、それが当たり前となります。ここまで来ると、日本人社員だけで構成された組織は奇妙に映り、重要なポジションに日本人しかいないことを「差別的だ!」と感じるようになるかもしれません。違いに対する許容度が拡がっていくと、違いを受け入れないことに違和感を覚えたり批判的になったりするのです。

日本のダイバーシティの未来像

日本におけるダイバーシティの現状について、おそらく、カナダやオーストラリアなどの多文化社会を理想としている人にとっては「何て時代遅れでドメスティックなんだ!」と思えることでしょう。ただ、そのような人は、日本の遅れを非難しながら国内に留まるのではなく、カナダやオーストラリアなどで生きていく時代がもうすぐくると思います。

日本国籍を有しながら日本国外で働き、豊かに暮らす先人たちの姿を見て、国外でのキャリアを模索する人たちがここ数年で急激に増えています。もはや、珍しくも難しくもないことなのです。前項で書いたとおり、違いに対する許容度が拡がっていくと、違いを受け入れないことに批判的になるので、このタイプの人は早いうちから国外でのキャリアを志向するようになります。

これは、外国籍の人にも言えることで、日本に行っても外国籍であるが故にキャリアの発展性に限界があるのなら、5年くらいは経験として働いてみるのはいいけれど、それ以上長居するのは得策でない、と考えて帰国するようになります。その結果、5年程度日本で暮らす外国人が一定数いて、日本社会はそれを活力として受け入れる。ある程度のレベルの仕事ができるよう、またある程度豊かな暮らしができるよう言語的・文化的な配慮は一定程度なされ、特に大きなトラブルも起きない。それゆえ、日本のダイバーシティはうまくいっている、という結論に落ち着くと考えます。

日本にダイバーシティは合わない

面白みのない話だと思われるかもしれませんが、現実をみれば、日本がいかにダイバーシティに不向きかがわかってもらえると思います。その最たる例として「性別の公平性」があげられます。1986年に男女雇用機会均等法が施行され、30年以上経っているにもかかわらず、女性の社会的活躍はまだ十分に実現できていません。組織における女性管理職の比率を見ても、女性国会議員の比率を見ても、いかに遅れているかは明白です。最近あちこちで話題になっているSDGsにしても、日本は総合ランキングでいえば常に20位以内と健闘していますが、「Gender Equality(性別の公平性)」については毎年「最重要課題」という最低評価を受けています。女性の教育機会が全国的に保証されており、幼児婚も禁止されている国にもかかわらず、赤信号でありつづけていることの問題性がほとんど指摘されない。SDGsが総論として話題になっていても、結局内実までは見ていないのです。長らく性別程度の違いもこえられない状況なのに、果たして国籍・文化・価値観の違いまでこえられるのでしょうか?現実として、日本はダイバーシティに不向きなのです。

詳細な日本のSDGs評価レポートはこちら

日本は人手不足にあえいでいなかったら外国人労働者を受け入れようとしたのか?

外国人労働者の受け入れ

日本にダイバーシティが合わないと私が考えているもう一つの論拠があります。今、企業、団体、自治体などがダイバーシティを推進しているのですが、「もし、日本が人手不足にあえいでいなかったら、外国人労働者を受け入れようとしたのか?」ということです。私自身は「NO」だと思っています。

国内の労働者が足りない中、低い賃金でも働いてくれる人が海外にいるので彼らに来てもらう。そのとき、問題がなるべく出ないよう彼らの受け入れ環境を急ぎ整備する。この状況をできるだけ前向きに表現して”ダイバーシティ”と呼んでいるような気がします。

労働力不足を補うために国外から働き手を受け入れること、それ自体を批判するつもりはありません。ただ、本当にダイバーシティを推進するつもりなのか、本当の目的は別のところにありながら、その実現に向けた美しいスローガンとして”ダイバーシティ”を利用しているのかは、はっきりさせておいた方がいいと考えます。本気で国籍や言語、文化の違いを乗り越えようとするならば、並々ならぬ労力と時間、費用がかかります。本意ならばそういった障害も耐えぬけるでしょうが、そうでないなら労働力確保のために不毛な争いをただ続けることになるでしょう。

私たちなりの答えを”急がず、されど休まず”探していこう

誰しも聞こえのいい理想論を好みます。今、日本に来ている外国人もそうです。日本は素晴らしい国だという話を信じ、日本に行けば稼げると思っています。我々日本人も、お互いの違いを理解し、尊重し合うダイバーシティの実現は素晴らしいと信じています。その反面、本当にできるのか?やり遂げるだけの理由があるのか?について考えていません。結果として、厳しい現実を突きつけられたとき、すぐに挫折してしまい、憎悪の炎を燃やして相手や社会などを安易に非難します。実に不健全で非合理的です。

日本にはダイバーシティ実現の土壌はない。まずはこの前提に立ち、小さなことからはじめ、少しずつ「many different types」の範囲を拡げていくべきです。SDGsの重要性について声高に叫ぶより、今日からでも皿洗いや洗濯を男性が率先して行い、女性の家事・育児の負担を下げるほうが遥かに意味があります。同様に、ダイバーシティの大切さを説く前に、国籍の異なる人と1週間でも一緒に働いてみる方がはるかにマシです。そういった日々の地道な実践を積み上げることで他者への配慮と敬意が生まれ、違いに対する寛容性は醸成されるのです。

日本は欧米諸国と比較してダイバーシティの点で確かに遅れをとっています。しかしながら、だからといって安易にダイバーシティという言葉を広めて、意識だけは他者に寛容になっていく状況は間違っているし、危ういとさえ思います。たとえ、他国から批判を受けようとも、私たちは私たちなりのペースで着実に多様性を実現し、その事実をもってはじめて「ダイバーシティの実現へ一歩進むことができた」と言う謙虚さを持ちたいものです。

人材獲得難で苦しむ北陸のメーカーが、日本語のできる理系大卒を15名採用・戦力化できたその秘密とは?

資料をダウンロードする

関連記事

ご相談・お問い合わせ ページ上部へ戻る